「近江牛肉 総本家 肉のあさの」は明治30年、近江八幡の地にて近江牛専門問屋「淺野畜産」として創業いたしました。
以来約百二十年に渡り、血統にこだわり選び抜いた近江牛の卸・小売をひとすじに。
お客様の食卓に笑顔を咲かせたい。
その想いを胸に、今日も職人たちが手ずからお肉をお届けしております。
近江牛は約400年前より、将軍や大名に献上されていた歴史があります。
肉禁食の江戸時代に、彦根藩では味噌漬けにした牛肉を「反本丸(へんぽんがん)」という養生薬として定評があり、長く江戸の将軍家にも献上していました。
明治に入り西洋の食文化が広まるとともに、日本国内に肉食の波が広がりました。
その際に近江牛は神戸港より横浜・東京へと運ばれましたがかつては出荷港=ブランドという構図があったため、出荷された「近江牛」が「神戸牛」として扱われていたことがあります。「神戸牛」の名前が世に知られるのにはそのような背景がありました。
やがて鉄道網が発展すると、ようやく「近江牛」として東京へと輸送されるようになります。東海道本線「近江八幡駅」から大事に育てられた牛たちが運ばれて行きました。
今日、近江牛は県内・国内の枠をこえ、世界中でその魅力を評価されています。特に「口当たりが良い」と感じられるオレイン酸が、和牛の中でも豊富に含まれています。
肉のあさのと近江牛との関わりは明治三十年、創業者浅野弥五郎が滋賀県蒲生郡桐原村(現在の近江八幡市内)で農耕牛を扱う家畜商として独立創業した頃に始まります。
当時からこの地では琵琶湖がはぐくむ肥沃な大地で稲作が盛んで、牛が農耕に欠かせない貴重な労働力であり、農家の玄関に入った場所には必ずと言っていいほど牛の部屋があり、家族と同様、大切に飼われていました。
家畜商のなりわいは、農耕に使えるよう調教した牛を農家に供給し、牛の体調管理や飼育指導などをすることが主な仕事でした。牛は3歳から4歳位になると体重も増え、ぬかるむ水田の土に脚を取られ農耕に適さなくなってきますので、退役させ肉牛として肥育され、入れ替えに若い牛を農家に提供します。
退役し肥育された牛は食肉として販売されることになりますが、当時でも牛肉はたいへん高価で、滋賀の田舎ではお盆と正月、田植え、稲刈り時期など節目の時にしか庶民の口には入りません。一方首都東京では文明開化のもと、すき焼き文化が花開き、各地から牛が集まりましたが、滋賀から送られた牛の品質の良さは他を圧倒し、「上牛、江州牛」などと呼ばれ東京都民や訪日外国人に喜ばれました。
敗戦後、経済復興とともに国民の食生活も改善され、牛肉の需要が大いに伸び、滋賀から東京に送られる牛も益々増加します。同時に牛の肥育環境も大きく変わり、農業の機械化により農耕目的の飼育から食肉生産のための多頭肥育へと農家の業態も変わります。弊社の仕事も農耕牛の供給から食肉卸し業に移行。東京出荷と地元食肉店への近江牛供給に力をそそぎます。
昭和26年に滋賀の集荷業者と東京の仲買業者で「近江肉牛協会」を組織。弊社2代目浅野武雄も結成に尽力しました。滋賀県知事を初代会長に迎え、日本で最初のブランド牛「近江牛」の宣伝、普及を推し進めることになります。
このような時を経て「近江牛肉 総本家 肉のあさの」は現在まで近江牛一筋に携わってきました。代々受け継がれてきた、牛を見る「目利き」、肉を見極める「目利き」を何より大切にして近江牛をお客様にお渡ししています。
お客様に安心安全な近江牛をご提供するために、毎日たっぷり愛情をそそぎ、肥育方法にもこだわりをもつ滋賀県でも数少ない昔ながらの近江牛の飼い方をし育てていただいている生産牧場をご紹介致します。
現在300頭肥育している中川牧場は、餌は牛に良いと思われるものを思考錯誤で厳選した自家配合。水にもこだわり鈴鹿山系からの水を地下100mから汲み上げた地下水を使用しています。
デリケートな牛だからこそ、愛情をそそぎストレスをためない環境づくりにもこだわり風通しも良く、夏も涼しく牛がストレスがなく育てられています。
現在1000頭肥育している亀井牧場は、牛にとって匂いもストレスの原因となるため牛床を湿らさないよう気をつけ、1日4回の餌の時間には1回毎に綺麗にしてから餌を与えるという徹底ぶり。
餌はとうもろこし、大豆かす、ふすまなど自家ブレンドの餌で、近江米で有名な地元のわらも使用しています。
近江牛を肥育して5代目となる山川さんの近江牛づくりのモットーは、『和牛の発祥の地、兵庫産の素牛にこだわる』 デリケートな雌牛(メス牛)を一頭一頭大切に育てる為に、小頭数肥育しています。
子牛同士で喧嘩しないよう1枠に2頭肥育し、牛にストレスを与えない配慮をしています。
また、肉に粘りや甘みがでるように餌には滋賀県で有名な近江米、もち米なども混ぜた自家配合の餌を与えています。